2010/11
探検家・地理学者 間宮林蔵君川 治


――間宮林蔵生家――
 1821年に完成した大日本沿海輿地全図(伊能図)は、伊能忠敬が1800年の蝦夷測量から1816年の第10次測量までを集大成したものだが、忠敬が実際に測量していない部分が2か所ある。第9次測量の伊豆7島と蝦夷地である。
 忠敬が測量した蝦夷は松前から函館、室蘭、襟裳岬、釧路、別海までの太平洋側で、それ以外は間宮林蔵の測量結果を基にして地図を作製している。
 伊能忠敬の地図測量の業績が偉大であり過ぎて、長久保赤水や間宮林蔵などが隠れてしまうが、科学技術の先達として正当に評価したいものである。
 我々の年代の者には、間宮林蔵は樺太を探検し間宮海峡を発見した人として有名人である。しかし第二次大戦後、樺太はソ連の領土となり間宮海峡の名も世界地図から消えつつあるのは残念なことだ。
 間宮林蔵(1780〜1844)は常陸の国筑波郡上平柳村(現在はつくばみらい市)の農家の生まれである。子供の頃、近くの小貝川堰止め工事を見ていて自分のアイデアを話したところ、工事のお役人が驚き、これが認められて江戸の測量家村上島之允の門人となる。父親は農家の出身では息子の肩身が狭いと、名主飯沼甚兵衛の養子として江戸に向かわせた。
 村上島之允が幕府普請役雇に任命されて1799年に蝦夷地に渡ると、間宮林蔵も従者として蝦夷地の東南部の測量に携わる。ここで林蔵は1800年に伊能忠敬に会い、測量術の手ほどきを受けたと云われている。1803年から東蝦夷地、南千島の測量に従事し、1806年から択捉(えとろふ)島の沿岸測量に従事した。
 その頃、サハリン(樺太)は大陸と地続きの半島なのか、それとも島なのかが不明であり、半島説が有力であった。1808年、松田伝十郎に従って第1回サハリン探検に行くが、林蔵は東海岸を主に探索し、途中で引き返して西海岸を半ばのラッカまで探索した。翌年は間宮林蔵が中心となってサハリン西海岸を北上して、島の北端に近いナニオーに到達し、サハリンが島であることを確認し、間宮海峡の発見となった。さらに林蔵はシベリア大陸に渡り、アムール川をデレンまで遡っている。
 1811年、間宮林蔵は松前奉行支配調役下役に昇進、蝦夷地の測量・地図作成が任務となる。1814年から蝦夷地沿岸の測量を開始し、1817年からは内陸部の測量を始めている。
 秋晴れの一日、間宮林蔵記念館を訪ねた。JR常磐線取手駅から関東鉄道バスで約30分、小貝川の稲豊橋バス停で降りたが畑の中で何の説明もない。付近の農家の人に教えられて、約15分で記念館に着いた。交通の便も悪くて忘れられた存在と思って行ったが、親子づれや若者、中高年の人達など次々と見学者が来るのに驚かされた。
 間宮林蔵記念館には林蔵が探検し測量した掛け軸大の樺太の地図が展示されており、ラッカ、ナニオー、デレンの場所が記されている。間宮林蔵が養父飯沼甚兵衛に出した手紙や、伊能忠敬が間宮林蔵に出した書簡、林蔵が幕府に提出した第1回樺太探検の報告書、樺太探検中の日記「東韃地方紀行」、地名、地勢、産物、民族、風俗を記した「北夷文界餘話」も展示されていた。
 これらは複製のものもあるが、測量用鎖、硯、探検用頭巾、天ガラス(太陽観測用)などの測量器具類は実物展示である。
 記念館の隣には茅葺の生家が保存されており、内部も自由に見学できる。土間も部屋も開放的で昔の農家の様子が覗われる。
 記念館の近くにある専称寺には顕彰碑「間宮先生埋骨之地」が建ち、林蔵が樺太探検に出発前に建てた自分の墓もある。
 小貝川を30分以上下流に歩いたところに、林蔵が測量家になるきっかけとなった岡堰があり、林蔵の銅像が建っている。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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